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クローバック条項~初めての発動事例を受けて~

2024/08/09 07:53
クローバック条項~初めての発動事例を受けて~

文責:弁護士 小幡 映未子

 

 

  2023年12月19日、ENEOSホールディングス株式会社(以下「ENEOSホールディングス」といいます。)において、当時の社長が懇親の場で酔った状態で同席していた女性に抱きつくという不適切行為があったとして、同年4月に導入したクローバック・マルス条項を適用し、月額報酬・賞与・株式報酬の一部返還・没収を実施するとのリリースがされました。この事案は、日本企業がクローバック条項を発動し、それを公表した最初の事例として話題となりました。

 

 今回は、このクローバック条項について、取り上げます。

 

 

1. クローバック条項とは

 クローバック条項とは、一般的に、重大なコンプライアンス違反や財務情報の訂正などに際して、報酬の一部または全部の返還を求める規定や制度といわれます。クローバック条項は、クローバック・マルスというようにマルスとセットで語られることが多いですが、クローバックが、報酬としての権利がすでに確定し、既に支給を受けた報酬を返還させるものである一方、マルスは、権利の付与はされたがまだ支給を受けていない報酬の権利を失効させるものであり、両者の性質は異なります。ここでは、クローバックを前提に述べます。

 

 企業における不祥事等が生じた場合の責任追及として、従来、役員報酬の自主返上が行われてきましたが、これは不祥事等の発生後に本人の同意を得て実現することが必要になります。これに対し、クローバック条項は、報酬ガバナンスの観点から、不祥事等の一定の発動事由が発生した場合に、役員に報酬を返還する義務を負わせることを、あらかじめ制度として導入しておくものです。自主返納に比べ、役員の処分の透明性が高まり、株主などのステークホルダーの納得感も得やすいということがいわれています。

 

 クローバック条項の発動事由としては、大きく、①報酬額の算定の前提の誤りを正すものと、②重大なコンプライアンス違反への制裁のためのものに分類できます。この点、ENEOSホールディングスで導入されたクローバック・マルス条項は、「重大なコンプライアンス違反等があった際」に発動されるとされており、②の類型と考えられます。

 

2. 導入の義務化の動向

 米国では、2023年10月、NYSEおよびNASDAQの上場規則が改正され、外国籍企業を含む上場会社に対し、改正規則に従ったクローバック・ポリシーの導入が義務付けられました。また、英国では、2024年にコーポレートガバナンス・コードが改訂され、取締役報酬を定める契約等におけるクローバック条項の規定と年次報告における発動の有無・理由の記載が定められるとともに、“comply or explain”の原則のもと、クローバック条項を採用しない場合には、その説明が求められることになりました[1]。

 

 日本においては、クローバック条項の導入を義務付ける法令や上場規則はまだありません。もっとも、経済産業省が策定した指名委員会・報酬委員会及び後継者計画の活用に関する指針[2]では、報酬委員会において議論することが考えられる事項の一例として、クローバック条項などの過度なリスクテイクを助長しないための仕組み等が挙げられており[3]、前述した諸外国での動向を踏まえると、クローバック条項の導入が推奨されている状況にあると考えられます。

 

3. 導入の際の留意点

 クローバック条項を導入する際、その制度設計において、発動事由や発動の手続の検討が必要となります。

 

 発動事由については、前述した1の①(報酬額の算定の前提の誤りを正すもの)としては、財務諸表の修正再表示を行う必要がある場合や業績連動報酬の報酬額算定の基礎となる業績指標の誤りがあった場合を発動事由とすることが典型的といえます。また、前述の1の②(重大なコンプライアンス違反への制裁のためのもの)としては、役員含む規程等において非違行為と定められている事由が発生したことを発動事由とすることが多いと思われます。

 

 発動の手続としては、返還額の算定が恣意的なものとならないよう、社外役員が過半数を占める任意または法定の報酬委員会が返還額の承認を行うといった制度にすることが考えられます。この点、ENEOSホールディングスで導入されたクローバック・マルス条項においては、「必要に応じて報酬諮問委員会の審議を経たうえでの取締役会決議によって」役員報酬の返還請求・没収ができるとされており、一定程度、公正を確保する手続を含む制度設計がされていたと考えられます。

 

 また、クローバック導入時に、役員本人の同意を得ておくべきかを検討する必要があります。定款または株主総会の決議によって各取締役の報酬額が具体的に定められた場合(株主総会において取締役全員の報酬総額を定め、取締役個人別の報酬額の決定を取締役会に一任する場合も含みます。)、取締役と会社との間の任用契約の内容となるため、任期中に取締役の同意なく当該報酬を減額することは許されないとする判例[4]・通説を前提とすると同意が必要ということになると考えられます。

 

 会社法上の手続としては、指名委員会等設置会社を除く会社で、会社法上、報酬決定方針の決定が義務付けられる会社[5]においては、クローバック条項の導入は取締役会決議によることになります。報酬決定方針の内容の一つとして「取締役の個人別の報酬等の内容についての決定に関する重要な事項」(会社法施行規則第98条の5第8号)として、「一定の事由が生じた場合に取締役の報酬等を返還させることとする場合におけるその事由の決定に関する方針等」が含まれると解されている[6]ためです[7]。

 

4. さいごに

 業績連動報酬の導入が重視されるなか、その導入割合に比例する形で、過度なリスクテイクの抑制や不正防止の観点から、クローバック条項の重要性も高まっており、今後、導入する企業も増加するものと予想されます。

 

 もっとも、報酬水準が高額な企業であればクローバック条項を導入する意義があるが、報酬水準が低い企業においては、返還可能性があるとすると役員が委縮するため、「攻めの経営」の観点からすればマイナスではないかという意見もあるようです[8]

 

 いずれにせよ、クローバック条項を導入したとしても、それが単に形式的なものであれば、過度なリスクテイクの抑制や不正防止の効果は乏しいものとなるでしょう。健全なインセンティブを生じさせる業績連動報酬等の設計を前提とし、その趣旨をよりよく実現する形での導入が重要となると考えます。

 

以 上

 

[1] 改訂は、2025年1月1日以降に開始する会計年度から適用されます。

[2] 経済産業省「指名委員会・報酬委員会及び後継者計画の活用に関する指針―コーポレート・ガバナンス・システムに関する実務指針(CGSガイドライン) 別冊 ―」(2022年7月19日策定)

[3] 同指針4頁脚注5

[4] 最高裁平成4年12月18日民集46巻9号3006頁

[5] 定款または株主総会の決議において取締役の個人別の報酬等の額を定めていない監査役会設置会社(公開会社かつ大企業であるものに限る。)であって有価証券報告書を提出しなければならない会社、および監査等委員会設置会社(会社法361条7項)

[6] 渡辺諭ほか「会社法施行規則等の一部を改正する省令の開設〔II〕-令和二年法務省令第五二号-」123頁(商事法務No.2251)

[7] 指名委員会等設置会社では報酬委員会の決議によることになります(会社法404条3項および409条2項)。

[8] HRガバナンス・リーダーズ株式会社 経済産業省委託調査報告書「企業の中長期的な企業価値向上に資する役員報酬の課題に関する調査報告書」(令和3年)12頁

 

執筆者:弁護士 小幡 映未子
    emiko.obata@sparkle.legal

 

本記事は、個別案件について法的助言を目的とするものではありません。
具体的案件については、当該案件の個別の状況に応じて、弁護士にご相談いただきますようお願い申し上げます。
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